説文解字で読み解く倭人記事

説文解字を用いた魏志倭人伝の解説、及び漢書、後漢書、論衡、山海経などの倭人記事の解読を行います。

今文経学派による俗説の横行

 

許慎達古文学派の学者の信奉するテキストは元々孔子旧宅を壊した時に壁の中から出現したといわれるものであった。
その出現のいきさつを今文学派の学者たちは"荒唐無稽"で信じられないとして非難し、古文経は劉欽らによって捏造されたものであって、隷書で書かれている今文のテキストこそ孔子の真意を伝える本来のものであると主張し、隷書の字体に基づいて説をなした。以下に「長」の字を例として、許慎と今文経学派との解釈の違いを記す。

 

小篆:「長」字の字形はリンク先にて確認できます。

http://xh.5156edu.com/hzyb/a19560b13326c42233d.html

長:久遠也。从兀从匕。兀者,高遠意也。久則變化。亾聲。[厂+丫]者,倒亾也。凡長之屬皆从長。

長:久遠なり、兀に従い、匕に従う。兀なる者は高遠の意なり、久しければ則ち変化す。亾の声、[厂+丫]なる者は亾を倒すなり。

「長」は[厂+丫]と兀と匕から成る会意兼形声文字で、[厂+丫]は「亡(亾)」を逆さまにした形、つまり「不亡」=不滅を表し、「亡(亾)」は音符を兼ねる。兀は「高遠」、匕は変化の化で長い時間の経過を表す。三つの要素が組み合わさって、字全体では「久遠」、つまり長い時間を本義とする。

 

これに対して今文経学派の解釈は説文解字序文によれば「馬頭人為長」と説文解字序文にはある。
隷書の字体が「長」である事から、字形の上部を「馬」字の上部に、下部を「人」と見立てて字形の解釈を行っているとある。阿辻哲次氏の著作では恐らく「長」字の字義の中で距離の長さを想定した解釈であろうと記述されている。
説文解字序文では具体的な経書の文脈に即した批判が行われた訳では無いので、字説の内容もはっきりしないが字義解釈は大きく異なっている事が判る。

 

 許慎は今文学者の俗説を非難しているが、許慎の時代には既に甲骨文字や金文の知識は失われており、古文経系学者の考える字義字源もそれ以前の時代とは異なっている物もある。長い時間の流れの中で見れば今文経系学派ばかりを非難する事は出来ないのかも知れない。ただ、許慎が説文解字を撰述した事で小篆から隷書へと変わっていく過渡期の知識が残ったとも言える。
言葉は時代と共に移ろう物であり、字義字源の源流について研究したい方には説文解字は間違いの多い、使われなくなった古い資料と見えるかもしれないが、同時代の史料を読み解くにあたっては重要な資料である。

古文経系儒学者と今文経系儒学者の対立

儒学者が二派に別れた遠因

⑴古文経系儒学の祖は劉向、劉欽親子である。劉向は漢の高帝の異母弟、楚元王交の四世孫。しかし劉向は「擩子嬰」などと侮られ「漢書帝紀に入れられなかった。これが今まで共に学んだ儒学者との決別に繫がったと推察する。つまり自分を「擩子嬰」等と呼び皇籍から外した輩は、今まで共に学んだ儒学者だったのである。

劉向は12歳にして官に仕え、宣帝、元帝、成帝の三代に歴事した。成帝の時、五経秘書を校した。劉向は一書を校し終えると一録を作り、その指帰を論じ、亦その誤謬を弁じ、それらを皆本書に附載した。又別に其の序録を作った。これを「別六」と謂う。後世に受け継がれた。劉向亡き後、息子の劉欽は父の遺志を継ぎ、今文経系儒学に拮抗した古文教系儒学を創設する。

⑵一方、元帝の皇后の甥であった王莽は儒学に造詣が深く、退廃した前漢の政治に辟易していた。又己の身分が皇后の弟の子と言う、外戚に在った為、到底政治の中枢に位置する事は適わず、悶々とした生活に身をやつしていた。しかし王莽は儒教政治を標榜し、やがて人心を掴むのだが、その後事もあろうに平帝を毒殺し、幼児嬰を立てて摂皇帝の位に就く。やがて自らを皇帝と称し「新」という国号を名乗り、漢から国を簒奪した。

⑶王莽は以前から劉欽とは親しいので、新朝が出来上がると国運営の要職を劉欽と古文経系儒学者に委ねた。当然今文経系儒学者は下野した。これが古文経系儒学者達であった。新たな百官の組織造りには「周禮」がテキストに使われ、春秋経解釈には左氏伝が専ら古文経系のテキストに使われた。
王莽の新政権は古文経系儒学を生み出し、今文経系儒学と対峙する構図を作り上げたと言える。

⑷劉欽は古文経系儒学者の祖である。古文経系儒学者を代表する三名の大家、許慎、鄭衆(ていしゅう)、班固のそれぞれの師は皆、劉欽に儒学を学んだ者達である。彼らは劉欽の孫弟子達である。

 ・許慎の師は賈逵(かき)であり、賈逵は父親の賈徽(かき)に学び、賈徽は劉欽の弟子である。

・班固は「漢書」芸文志を書き、前漢の書籍の発展を記録するが、これは劉向・劉欽親子が宮廷内の図書校訂を録した「七略」を抜粋したモノであるから、班固も劉欽を学統の祖とする儒学者である。つまり古文経系の儒学者である。

・鄭衆は父から儒学を学び父の鄭興は劉欽から左氏伝を学んだ弟子である。

 ここに登場する古文経系儒学者が学んだ儒学の教義は「周禮」であり、「左氏春秋」である。ちなみに今文経系儒学者が経典としたのは「穀梁伝春秋」である。

                       魏志倭人伝の会テキストより    

魏志倭人伝を書いた陳寿も古文経系儒学者と見られるが、その理由は後述する。

 

説文解字とは

説文解字とは

最古の部首別字書であり、中国文字学基本的古典。全15巻。後漢の許慎選。

和帝の永元12年(100年)頃に成立。
漢字9千余字を540の部首に分類、六書の原理に依り、字形の成り立ちと本義(本来の意味)を説く。

前漢儒教では五経詩経書経三礼易経・春秋)博士が家法によって経書を講釈していた。
やがて孔子旧宅の壁中や民間から、博士が教えるものとは違う経書が発見された。
これは先秦時代の古い書体で書かれていたので、通行の隷書体(今文)に対して、古文と呼ばれた。
前漢末に古文教系の学者と、今文経をテキストとする今文経学派の学者とが対立する様になる。
古文教系と今文教系の学者が論争を行い、古文経派が負けてしまい、今文経派が主流となる。

その後、新の王莽の時代には古文教派の学者が引き立てられ、後漢代には王莽の時代を否定する為にも今文経派が引き立てられる様になる。
許慎は後漢代の古文経派の学者である。

 

説文解字撰述の動機

許慎の時代は学問とは即ち経学を意味し、文字は学問(経学)の根本であると許慎は考えていた。
経書は人間として生きていく規範を述べた書物であるが、それも究極によっては文字によって構築されたものである。
だから、経書の正しい解釈を得る為には文字の一字一字の正しい解釈から出発すべきだと考えた。

古文経学派の信奉するテキストは元々孔子の旧宅を壊した時に壁の中から出現したと言われるものであったが、その出現の経緯を今文経学派の学者達は荒唐無稽で信じられないとして非難し、古文経は劉欽らによって捏造されたものであって、隷書で書いてある今文経のテキストこそ孔子の真意を伝える本来のものであると主張し、隷書の字体に基づいて説をなした。その様な今文経学派の学者達の俗説を許慎は激しく非難している。

今文経の学者は隷書の字形を基準とし、更にそれを恣意的に解釈する事がはびこっていた。更に学者達はそれを堂々と学問の世界に展開したのである。許慎はそれに対して正しい解釈を述べようとしたのであるが、その時に彼がまず第一に着手しなければならなかったのは、より古く、より信頼しうる書体を字形解釈の基礎に据える事であった。その時彼が採用したのが小篆であった。

説文解字の最も基本的な書式は、まず小篆を掲げ、次にその文字の本義と字形の成り立ちを説く(この部分は初めから隷書で記述する)。

説文解字に関わる書体について

説文解字に残っているのは、東方の斉や魯国で用いられていたと思われる簡潔な書体であり、秦で用いられていたのが「籀文(大篆)」であると考えられる。
また南方の越を中心とした地域ではきわめて装飾的な「鳥書」という書体が用いられていた事が、出土史料によって知られている。
書体が地域によって異なる事は統一国家にとってきわめて不便な事であり、始皇帝の命により丞相の李斯が「籀文(大篆)」を簡略化して作った「小篆」という書体を基準とし、その書体に合わないものを廃止した。

始皇帝言論弾圧を始め、罪人を労役に駆り立てて、万里の長城阿房宮に取り掛かる。
必然的に獄吏の仕事が忙しくなり、事務処理も煩雑となった。
曲線の多い「小篆」では書くのに時間が掛かる為、程邈という人物が直線を基準とした簡略体の書きやすい書体を作った。
それが「隷書」であるとされる。

説文解字は何故、秦代に作られた「小篆」を基準とするのか?。

説文解字は字形解釈の基礎に小篆を採用し、小篆だけでは不十分だと思われる時に、古文と籀文を、またごくまれに古文奇字を用いて補足する。基準とされる字形がより古いものであるほど漢字の原形に近いのだから、小篆よりも古文か籀文を基準にすべきであったとの疑問がおこるが、それはおそらく資料的に不可能だったのであろう。というのは、古文は元来が壁中出土の経書の文字であるから、経書に使われている文字しか知られないのだし、籀文も元来は「大篆」という書物十五編に記されたものであるが、漢書芸文志によれば前漢武帝の時に内六編が失われたという。だから両者とも漢字全般に渡る資料としては不完全なものだったのである。

漢字の字源としては甲骨文字や金文の方が正確では無いのか?。

漢字の字源としては甲骨文字や金文の方が古く、現在ではこれらの研究が進み、説文解字の字義解釈にも修正が迫られている部分もある。だが、説文解字の字義解釈には五行説に基づく、漢代における先進的な哲学思想が盛り込まれており、当代の歴史や文化を考える上で重要な資料である事に間違いはない。
当ブログでは漢代以降の資料を中心に取り扱う為、説文解字の字義解釈が相応しいと言える。


説文解字の解説として阿辻哲次著 [漢字學「説文解字」の世界]から引用させていただきました。