説文解字で読み解く倭人記事

説文解字を用いた魏志倭人伝の解説、及び漢書、後漢書、論衡、山海経などの倭人記事の解読を行います。

古文経系儒学者と今文経系儒学者の対立

儒学者が二派に別れた遠因

⑴古文経系儒学の祖は劉向、劉欽親子である。劉向は漢の高帝の異母弟、楚元王交の四世孫。しかし劉向は「擩子嬰」などと侮られ「漢書帝紀に入れられなかった。これが今まで共に学んだ儒学者との決別に繫がったと推察する。つまり自分を「擩子嬰」等と呼び皇籍から外した輩は、今まで共に学んだ儒学者だったのである。

劉向は12歳にして官に仕え、宣帝、元帝、成帝の三代に歴事した。成帝の時、五経秘書を校した。劉向は一書を校し終えると一録を作り、その指帰を論じ、亦その誤謬を弁じ、それらを皆本書に附載した。又別に其の序録を作った。これを「別六」と謂う。後世に受け継がれた。劉向亡き後、息子の劉欽は父の遺志を継ぎ、今文経系儒学に拮抗した古文教系儒学を創設する。

⑵一方、元帝の皇后の甥であった王莽は儒学に造詣が深く、退廃した前漢の政治に辟易していた。又己の身分が皇后の弟の子と言う、外戚に在った為、到底政治の中枢に位置する事は適わず、悶々とした生活に身をやつしていた。しかし王莽は儒教政治を標榜し、やがて人心を掴むのだが、その後事もあろうに平帝を毒殺し、幼児嬰を立てて摂皇帝の位に就く。やがて自らを皇帝と称し「新」という国号を名乗り、漢から国を簒奪した。

⑶王莽は以前から劉欽とは親しいので、新朝が出来上がると国運営の要職を劉欽と古文経系儒学者に委ねた。当然今文経系儒学者は下野した。これが古文経系儒学者達であった。新たな百官の組織造りには「周禮」がテキストに使われ、春秋経解釈には左氏伝が専ら古文経系のテキストに使われた。
王莽の新政権は古文経系儒学を生み出し、今文経系儒学と対峙する構図を作り上げたと言える。

⑷劉欽は古文経系儒学者の祖である。古文経系儒学者を代表する三名の大家、許慎、鄭衆(ていしゅう)、班固のそれぞれの師は皆、劉欽に儒学を学んだ者達である。彼らは劉欽の孫弟子達である。

 ・許慎の師は賈逵(かき)であり、賈逵は父親の賈徽(かき)に学び、賈徽は劉欽の弟子である。

・班固は「漢書」芸文志を書き、前漢の書籍の発展を記録するが、これは劉向・劉欽親子が宮廷内の図書校訂を録した「七略」を抜粋したモノであるから、班固も劉欽を学統の祖とする儒学者である。つまり古文経系の儒学者である。

・鄭衆は父から儒学を学び父の鄭興は劉欽から左氏伝を学んだ弟子である。

 ここに登場する古文経系儒学者が学んだ儒学の教義は「周禮」であり、「左氏春秋」である。ちなみに今文経系儒学者が経典としたのは「穀梁伝春秋」である。

                       魏志倭人伝の会テキストより    

魏志倭人伝を書いた陳寿も古文経系儒学者と見られるが、その理由は後述する。